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原创翻译资料-北条时宗

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发表于 2010-12-1 10:37:43 | 显示全部楼层 |阅读模式
本帖最后由 松川秀樹 于 2010-12-1 10:38 编辑 ( A  l. ^' s* E& y! J
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(声明,在下并不是日语专业人士,如有错、漏,还望各位大人指正。)+ l# ?/ v# H8 |  T' q
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资料-北条时宗1 c9 V# @( |1 Z1 l, Y2 Q5 y

# z1 Y- K2 |; O$ `# E# S4 s1 V& n3 g        北条时宗,镰仓时代中期的武将、政治家,镰仓幕府第8代执权(译者注:幕府执权是当时日本的实际最高统治者),官位是正五位下相模守,去世后(1904年)、赠从一位。/ W/ U, T  }4 {3 v* Z  P
        北条时宗出生于世袭镰仓幕府执权一职的北条氏嫡流得宗家,蒙古帝国对日本增加施压时,就任执权。在内政方面,北条时宗强化北条得宗家的权力;击退了在国力上具有压倒性优势的蒙元的两度入侵(译者注:实际上主要原因是暴风雨摧毁了元军的船只)。后世评价北条时宗为拯救日本国难的英雄。& u  @" ~0 U0 B1 n* R5 W
        北条时宗皈依、笃信禅宗,受教于父亲北条时赖的朋友兰溪道隆(宋人,临济宗)及兀庵普宁(宋人,临济宗)、大休正念(宋人,临济宗)等禅宗大师。兰溪道隆去世后,又向中国派遣使者聘请了无学祖元(宋人,临济宗)大师。另外据说也支持过律宗忍性的慈善活动。祖元大师为镰仓圆觉寺(镰仓市山之内)的开山祖师。北条时宗将圆觉寺作为关东祈祷所,并将尾张国富田庄捐赠给了圆觉寺。
1 s. |# s3 G6 C" K        生涯! ^. X. D0 w- v, H* O3 l
        从出生到就任执权
9 Y( J# G3 F1 [2 `4 G/ p        建长3年(1251年)5月15日,正寿丸(北条时宗)出生在相模国镰仓安达氏的甘绳邸。在北条时宗之上有一位异母兄宝寿丸(北条时辅),但宝寿丸是北条时赖的侧室所生(庶子),北条时赖指定正寿丸为继承人。
5 N1 C/ o! h$ P0 d        康元2年(1257年),在将军御所,由征夷大将军宗尊亲王以乌帽子亲为正寿丸元服,并赐其偏讳,取名为相模太郎时宗。元服时,北条氏一门和得宗被官、公家等都列席,举行了盛大的仪式。庶兄北条时辅元服时没有这么大的规模,众所周知北条时宗成为名副其实的北条家下一位栋梁。正嘉元年6月23日,宗尊亲王为了避暑,访问了北条时宗所居住的山之内的泉亭。
2 p  H5 e8 o. y. |6 o        文应元年(1260年),北条时宗就任将军供奉等小侍所的别当。当时,已经有北条实时担任别当,小侍所在此之前并没有设置两个以上的别当之职,从北条时宗就任以后,任命两个以上的别当成为了惯例。据说将此惯例化是为了让北条实宗担任别当显得正当化。北条时宗进入小侍所,是北条时赖考虑到让北条时宗为将来出任执权积累经验,当时的小侍所别当北条实时是个深谋远虑、教养深厚的人物,让北条时宗接受其的指导,陶冶人格。, p+ \  ?7 C. p4 @# e0 d
        弘长元年(1261年)4月,北条时宗与安达义景之女堀内殿结婚。另外还有北条时宗在极乐寺上的武艺大会上受到宗尊亲王称赞的逸话。' Q" }9 |" h7 p7 W$ _9 |
        文永元年(1264年)7月,六代执权北条长时出家,北条政村就任七代执权。8月年仅14岁的北条时宗就任相当于执权的助理的连署一职。北条时宗在执权北条政村和北条氏的重臣北条实时的协助下,于文永3年(1266年)废除企图颠覆幕府的宗尊亲王的征夷大将军之位,并将其送回京都,拥立惟康亲王为征夷大将军。
& ~0 U, q5 X' r* Z8 v8 h2 Q        文永5年(1268年)正月,高丽使节带着蒙古的国书来访九州大宰府,将蒙古的要求日本臣服的国书送至镰仓。3月5日,北条政村让位,北条时宗就任第八代执权。$ q( Y2 T7 N. O" [. X! f
        从对应元军到晩年
, Z: k) T8 p" |        北条时宗在北条政村、北条实时、安达泰盛、平赖纲等人的辅佐下,作出对蒙古国书进行返书等外交协议,强化异国警固体制,进行降伏的祈祷仪式。文永8年(1271年),蒙元使节再度到日本进行武力进攻的警告后,北条时宗命令少贰氏为首的西国御家人进行战争准备。
3 m+ d- f1 J0 L" d        另外,为了巩固北条得宗家的权力,北条时宗在文永9年(1272年)诛杀了时任六波罗探题南方别当,对其出任执权一事不满,企图接近朝廷的兄长北条时辅,及北条氏一族的评定众北条时章、北条教时兄弟(二月骚动)。文永11年(1274年),将向幕府上呈《立正安国论》的日莲(译者注:日本法华宗之祖)流放佐渡。! O. ]* _0 {3 h2 f3 o# H
        文永11年(1274年),元军进攻日本。此时的日军由于不适应元军的集团战法和新兵器等原因,陷入苦战。随着暴风雨的到来,或是元军的指挥官们之间的决策出现分歧等原因,元军撤退,回避全面性战斗。第二年,劝降的蒙元使节杜世忠等人来到日本镰仓,被处死。这次处刑也有示威的意图。战后,北条时宗为首的镰仓幕府领导层曾想出兵高丽,但顾虑到军费等问题,计划中止,设置新的异国警固番役,吸取文永之役的教训,在博多湾岸建造存留至今的石垒,专心强化国防。并且,任命北条一族陆续担任九州各国的守护。* h; X3 J6 d! T. D
        弘安4年(1281年)的弘安之役时,作战指示以北条时宗之名发出,得宗被官被派往前线,由北条时宗指挥。元军在石垒防御强化的日军的抵抗下,陷入苦战,暴风雨再来,元军几乎全军覆没。此时北条时宗虽然已经渡过元军来袭的国难,但又出现了在战后拿不出土地赏赐有功的御家人,造成了御家人的不满,为了防备元军第3次进攻,又不得不强化国防等种种难题。
* d* _# ^$ X( ~        弘安7年(1284年),北条时宗卧病在床,4月4日出家,当天病故,享年34岁,葬于北条时宗自己修建的瑞鹿山圆觉寺。
( R  `# }7 X% I        评价
3 F% [: Q' G- V9 j6 t        北条时宗不像其父北条时赖的传说、逸话那么丰富,近代历史界正规的评论却非常多。对其事迹是歌颂或是非难,依据评论者对史实的解释,其间的差距非常大。
; [- Z$ j: Q& z9 U! O        肯定的评价大多集中在击退元军的入侵,是建立以认同北条时宗将传达蒙元侵略意图的使者斩杀的前提上。除了《增镜》称赞北条时宗为名君之外,在国学者的观点里,将承久之乱流放三上皇的北条氏视为逆贼本居宣长,也对北条时宗持肯定的评价。水户藩发行的《大日本史賛薮》完全是歌颂北条时宗。其他,赖山阳也歌颂北条时宗。
! {/ {' C' t  B3 H5 q1 g$ |* m; i        从中世到近世,对北条时宗持否定性评价并不多。橘守部提出蒙古袭来是欲使朝廷解体的北条氏与蒙元勾结而自导自演的阴谋的假定,弹劾北条时宗。但是,橘守部的这种评价太过于荒唐无稽,并没有多少价值。有人指出橘守部提出这种荒唐无稽的奇谈的背景,是对本居宣长潜在的反感。# R2 _: G/ E1 e6 S9 n
        幕末,日本与列强的交涉纷乱纠结,尊王攘夷之呼声高涨后,歌颂北条时宗的倾向也加强了。明治时代追赠元寇受难者的同时也追赠北条时宗为从一位,由汤地丈雄设立了元寇纪念碑。太平洋战争时,鼓吹皇国史观后,关于北条时宗的论考更加盛行,众多评传问世。
" ]4 q% u' l5 {. `        在二战后,有学者提出北条时宗处决蒙元的使节,与蒙元的外交决裂等等,日本出现彻底的抗战姿态,是缘于没有把握国际情势的北条时宗的无知,非难北条时宗是夜郎自大式的人物。对这种否定北条时宗的评价,有学者认为如果考虑到蒙元对高丽实行的暴虐统治,北条时宗的判断不如说是妥当的反驳。镰仓幕府由具有武断性格的武士掌权,其彻底抗战的姿态也是必然的。6 A0 z! \& m( C: A/ o( M) C. D* R1 t* O
        从其的事迹概况来看,虽然不得不说北条时宗是个冷酷无情的、专制的政治家、权力者,但另一面北条时宗皈依、笃信禅宗,对家人也是温情以待。3 x* C/ r1 i7 w; u
        在内政方面,北条时宗忙迫于细分化的御家人的所领问题和蒙古袭来的战后处理。蒙古袭来以后,内政、外交两方面的主导权也从京都的朝廷转移到了镰仓幕府。以此为契机,镰仓幕府从作为军政组织的“幕府”演变成更具全国性色彩的国家组织(网野善彦《蒙古袭来》)。
  p6 V. R. Y! ~  ], ]# f6 ~2 x        年谱
2 x5 M! w. D6 a        西历年-旧历年月日-内容$ J$ k$ o6 K, T) G; D9 ]
        1251年-建长3年5月15日-生诞
" k5 u. b+ k9 x" b# L, E/ f! \        1257年-康元2年12月26日-元服+ U$ f, I: \5 y& u7 S
        1261年-弘长元年12月22日-就任从五位下左马权头。
% m9 P2 p2 D& i% C1 n, q        1264年-文永元年8月11日-就任连署(译者注:连署是镰仓幕府的役职)。
- e' N# d- B9 |        1265年-文永2年1月5日-升为从五位上,左马权头如故。
) B" H! x- n3 S1 |( f; }) J! T2 S        *1月30日-兼任但马权守。
0 H. k0 G7 k: Z6 c( g, [% D        *3月28日-兼任相模守,去但马权守。" f. s) e2 M7 ]' M( n. D
        1268年-文永5年1月29日-辞左马权头。5 ?% _7 x( E! X+ q9 V* z: ^- `' J% F
        *3月5日-就任执权。
. a. ^3 x) }3 P: J+ }1 @        1272年-文永9年2月-二月骚动
3 h3 f2 i% R+ v  G        1274年-文永11年10月-文永之役3 L  Z# A7 o' k! F8 `8 w* Q3 Y3 m0 Z3 J
        1281年-弘安4年5月-弘安之役' r/ E: R8 I- I  o/ J& f- B$ q4 W
        *闰7月7日-升为正五位下,相模守如故。 
1 a1 W: X: F( y7 q        1284年-弘安7年4月4日-去世
2 t2 D: n+ X: z4 D; L9 L& n        1904年-明治37年5月27日(新历)-赠从一位
7 u; J* _6 ^( x/ T5 l  S# m        ……
3 q2 e# p$ K+ v/ a        日语原文
  V( W- }2 j# z; t) S3 @) s( E3 g9 J        北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。# z, \$ I, J% L# g  H- A( ]5 B
        鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、モンゴル帝国の日本に対する圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、圧倒的に国力の勝るモンゴルの2度にわたる侵攻を退け、後世には日本の国難を救った英雄とも評される。官位は生前、正五位下相模守。没後(1904年)、贈従一位。
  e+ S; ~" b; u6 `. N8 l        生涯
9 m( J( E( k' m5 c8 s% a+ z- ^        出生から執権就任まで) g: m  r  W3 N' m& q/ P
        建長3年(1251年)5月15日、相模国鎌倉、安達氏の甘縄邸に生まれる。異母兄に宝寿丸(北条時輔)がいたが、宝寿丸は側室の子(庶子)であったため、正寿が後継者に指名された。0 @) J+ O8 z& d# E" E
        康元2年(1257年)、将軍御所にて宗尊親王を烏帽子親として元服し、その偏諱を賜り、相模太郎時宗を名乗る。元服には北条氏一門や得宗被官、公家などが列席し、盛大な儀式が催された。庶兄である時輔とは、元服の規模に大きな違いがあり、時宗が名実共に北条の次期棟梁であることが周知された。正嘉元年6月23日には、宗尊親王が納涼の為に時宗が住む山ノ内の泉亭に来訪している。* _' a" x' j% T4 P* j* \& ]
        文応元年(1260年)、将軍の供奉などを務める小侍所の別当に就任する。当時、既に北条実時が別当の任にあり、小侍所はそれまで別当を複数置く官職ではなかったが、時宗の就任以降、別当を複数任命することが慣行となる。これは既に実時が別当になっているところに、更に時宗が別当に就任したことを正当化するための慣例化だという。時宗の小侍所入りは、将来執権になるために経験を積ませるための時頼の配慮だった。共に小侍所の別当であった実時は深慮に富んだ教養深い人物で、時宗は彼から指導を受け、人格を陶冶したと考えられる。
+ |( k& l- \; X8 c1 g6 N* w& m. _7 |        弘長元年(1261年)4月に安達義景の娘の堀内殿と結婚。極楽寺での武芸大会で宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。) F$ n& m' {! a
        文永元年(1264年)7月、6代執権北条長時が出家、北条政村が7代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。執権政村や一族の重鎮北条実時と協力して、文永3年(1266年)に幕府転覆を計画していたとされる宗尊親王の廃位と京都送還、惟康親王の擁立などを行った。; ]. G2 \6 N2 t+ d; R7 Y3 r" W5 B4 F
        文永5年(1268年)正月、高麗の使節がモンゴルの国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、第8代執権となる。
1 i8 ^2 x5 b5 }* D) N# G# ^        元寇への対応から晩年
* [6 G" W9 |  I4 @8 t& e        時宗は政村や北条実時・安達泰盛・平頼綱らに補佐され、モンゴルの国書に対する返牒など対外問題を協議し、異国警固体制の強化や、降伏の祈祷など行わせる。文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせている。
6 g4 A1 ^: J( U, C$ r" L! I4 d0 m        また、得宗家の権力を磐石なものとするため、文永9年(1272年)には六波羅探題の南方の別当で弟の時宗が執権になった事に不満を持ち、朝廷に接近するようになっていたを兄の時輔や、一族の評定衆北条時章・教時兄弟を誅殺している(二月騒動)。文永11年(1274年)、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流した。
! Z( [* J* Q$ z, W        文永11年(1274年)、モンゴル軍が日本に襲来した。いわゆる元寇である。この時の日本軍は元軍の集団戦法や新兵器などに苦戦したが、暴風雨の到来によるとも指揮官たちの方針の分裂が原因とも言われるモンゴル軍の撤退で全面的戦闘は回避された。翌年、降伏を勧める使節杜世忠らが来日すると、鎌倉で引見し、処刑する。この処刑には示威行動の意図もあった。その後、時宗はじめ幕府の首脳陣は高麗出兵を考えていたようだが、軍事費などを勘案した末、結局中止となり、異国警固番役を新たに設置し、文永の役を教訓として博多湾岸に今でも残る石塁を構築するなどして国防強化に専念した。また、北条一族が九州などの守護に相次いで任命されている。
. a! k- k- D! h2 e' t2 m- I# }7 |        弘安4年(1281年)の弘安の役では、作戦指示が時宗の名で出され、得宗被官が戦場へ派遣されて指揮にあたった。モンゴル軍は、石塁などで防御が強化された日本軍の抵抗に苦戦した末、暴風雨のために壊滅した。 こうして時宗はモンゴル軍の襲来という国難を回避したが、戦後に今度は御家人などに対する恩賞問題などが発生したり、3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、難題がいくつも積み重なっていた。
2 n2 L, n: l+ M6 q9 c& i        弘安7年(1284年)にはすでに病床にあったとされ、4月4日には出家し、同日に34歳で病死。自らが開いた鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られた。
( H! U0 m3 o4 e$ r# S% D. P0 x. V        人物- G. z$ j) d" L
        時宗は禅宗に帰依するなど信心深く、特に禅宗は父の時頼と交友のあった蘭渓道隆、南宋から来日した兀庵普寧・大休正念などから教えを受けていた。蘭渓道隆が死去すると名師を招くために中国に使者を派遣し、無学祖元を招聘する。また、忍性の慈善活動を支援したとも言われる。祖元が開山した鎌倉の円覚寺(鎌倉市山之内)の開祖となり、円覚寺を関東祈祷所とし、尾張国富田庄を寄進する。
0 Z9 k* }: t& X/ X) c# b# x        評価; z0 H7 T" z6 ]' o
        時宗は、父、時頼ほど伝説、逸話が豊富ではなく、本格的に論評が風発するのは近世に入ってからであった。その事績を礼賛するか、非難するかの差異は、評する者の史実の解釈に依拠するところが大きい。
7 R8 @% t; }* O7 T; J2 R$ L        肯定的評価の多くは、夷狄蒙古を撃退したという事績に集約され、蒙古からの通達に侵略の意図があり、使者を斬殺したことを是認する前提に立脚する。「増鏡」で名君であると称賛されている他、国学者の観点から、承久の乱で三上皇を島流しにした北条氏を逆賊として排撃した本居宣長も、時宗については肯定的に評している。水戸藩発行の「大日本史賛藪」では、全面的に時宗は礼賛されている。他、頼山陽も時宗を礼賛している。4 d) v4 Q$ ~  b. D/ N
        中世から近世においては、否定的な評価はあまり下されることがなかったが、橘守部は、蒙古襲来は朝廷潰しを意図する北条氏と蒙古が結託して行った自作自演であると仮定して時宗を弾劾している。しかし、守部のこの評価は荒唐無稽に過ぎるとしてあまり顧みられることはない。守部がかような荒唐無稽な珍説を提唱した背景には、守部の本居宣長に対する反感が沈潜していたと指摘される
- Q  M# A: s# X; t, Q8 E        幕末、諸外国との折衝で紛糾し、尊王攘夷の気風が高まるようになると、俄然、時宗に対する礼賛は傾向を強めるようになる。明治時代には元寇受難者への追贈で時宗にも従一位が追贈され、湯地丈雄によって元寇記念碑が設立された。太平洋戦争の頃になり、皇国史観が鼓吹されるようになると、時宗に関する論考は一層盛んになり、評伝などが数多く書かれた。
5 K  O$ [% M8 D; p7 `: T        戦後になると、モンゴルの使節を殺害して対日交渉を決裂させるなど、徹底した抗戦の姿勢をとったことが、国際情勢を把握していない無知に起因するものであり、時宗は夜郎自大であるという非難が起こるようになった。この否定的な評価に対しては、元が高麗で行った統治を考慮すれば、時宗の判断はむしろ妥当なものであったと反論されている。また、鎌倉幕府が武断的性格を持つ武士によって作られた政権であったことから、徹底抗戦の構えは必然でもあった。
1 ]& S& R/ B) p, q        事績を概観すれば非情であり、専制的な政治家、権力者としての側面は指摘せざるを得ないと言うが、一方で禅に篤く帰依し、また家族に対しては温情を以って接した。: L, w, ]' I+ P1 G. R7 i
        内政では、細分化する御家人の所領問題と蒙古襲来の事後処理に追われた。また、蒙古襲来以降、内政・外交の両面で京都の朝廷から主導権を握ることとなった。これを契機として、鎌倉幕府は軍政組織としての「幕府」から全国的な国家組織としての色合いが濃くなっていったとする説がある(網野善彦『蒙古襲来』)。& H$ T: E8 k7 I
        経歴# q# M7 o, i/ R. |) C1 W
        和暦         西暦         月日
: N! v/ k) N' J0 [7 I3 _7 ^        (旧暦)         内容1 D& Q/ Y+ H: B$ U- r, r
        建長3年         1251年         5月15日         生誕
8 k8 C" H$ z) n! z% ^        康元2年         1257年         12月26日         元服
2 _8 r) F( b; E) [. Y5 N        弘長元年         1261年         12月22日         従五位下に叙し、左馬権頭に任官。
2 A  P9 q6 O' a2 {  q+ S        文永元年         1264年         8月11日         連署就任。
, p5 S7 t) r& L/ Y) Q( P; \        文永2年         1265年         1月5日         従五位上に昇叙。左馬権頭如元。
* u5 }* h0 K8 L' H        1月30日         但馬権守兼任。6 g9 t. ^2 [7 `) Z. R
        3月28日         相模守兼任。但馬権守去る。
; D" S2 w4 s4 v7 A        文永5年         1268年         1月29日         左馬権頭辞任。
& Q* L: N5 b8 g% y        3月5日         執権就任。3 q, @7 q9 N, T' u% s, A1 o9 g
        文永9         1272年         2月         二月騒動$ {. w$ h, p/ U$ b
        文永11年         1274年         10月         文永の役- z/ \9 q- {) u. V8 r
        弘安4年         1281年         5月         弘安の役4 r* p, J# z# R
        閏7月7日         正五位下に昇叙。相模守如元。 / l- |8 q5 t; ?2 H! m
        弘安7年         1284年         4月4日         死没6 M6 z$ m1 O" H  ~2 Y  I
        明治37年         1904年         5月27日(新暦)         贈従一位
6 a; h. H' v/ [! Z) g4 r  Y, @        ……! H% E% ~2 i+ N1 v# L- ^$ H0 j) _
        (百度百科已经接受了我翻译整理的北条时宗资料)7 j& V% w+ E7 F1 Z- }
        (2010)/ |% u+ ]* n4 _# Y" [: V/ i; H
       
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发表于 2010-12-1 10:41:53 | 显示全部楼层
关于北条时宗这个人我之前的确是不太熟悉的,受教了,谢谢。
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 楼主| 发表于 2010-12-1 11:00:27 | 显示全部楼层
林九郎道雪 发表于 2010-12-1 10:41
* O7 S* ?, M3 ~* \) i关于北条时宗这个人我之前的确是不太熟悉的,受教了,谢谢。

2 S0 v+ m/ Z. C/ K" Y3 d资料来自日语维基。
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 楼主| 发表于 2010-12-1 11:00:44 | 显示全部楼层
林九郎道雪 发表于 2010-12-1 10:41
" J# M2 ~- a" \5 |6 k+ f0 p6 N关于北条时宗这个人我之前的确是不太熟悉的,受教了,谢谢。
$ G/ w! f  y; @; f
道雪样,不用谢。
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发表于 2011-2-2 20:29:14 | 显示全部楼层
镰仓时代的人际关系好复杂,暗杀最高领袖好像很容易就得逞了。
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发表于 2015-10-1 13:27:32 | 显示全部楼层
原来执权的官位都不高
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